“辛口”ではなく

「日置桜は甘口ですか? 辛口ですか?」

お客様から、よくこんなお問い合わせをいただきます。「甘くないお酒です」と答えることが多いのですが、ほとんどの方に困惑されます。普通に「辛口です」と言えばすむのかもしれませんが、その表現は正確ではないと考えるため、こんなお返事をしてしまいます。

お酒はお米を発酵させたものです。そのアルコール発酵のメカニズムは、実は思いのほかシンプルです。仕込み桶で発酵する醪(もろみ)の中は、言ってしまえば甘い米汁。酵母菌は繁殖のエネルギーのために糖分を食べ、アルコールを排出します。この糖分を酵母が食べることで、桶のなかのアルコール分は高まっていきます。

甘い酒に仕上げたければ糖分が残っている状態でしぼります。甘くない酒にするためには酵母にたくさん食べてもらって糖分を減らします。ただし、酵母は全ての糖分を食べるのではなく、発酵性糖分は分解できますが非発酵性糖分は分解できません。醪から糖分がまったくなくなるわけではないのです。

「甘みの多い酒にするのか、少ない酒にするのか」

それは、それぞれの蔵の考え方や土地の嗜好性によって変わります。この製法の過程において、“辛味”を与える要素はありません。“甘口・辛口”という表現では、捉えられない味の広がりがあるような気がするのです。

以上のような理由で、「辛口」は醸造家が使うべき表現として適当ではないと考え、できるだけ使わないようにしている、というわけなのです。

食中酒—食をささえるお酒

屁理屈のような前置きとなってしまいましたが、このご説明によって弊社の酒造りを少しお伝えできるのではないかと思います。

山根酒造の酒は、先程述べた説明にならえば、“甘くない酒”にあたります。専門用語で言う「完全発酵」という方法です。まずしっかりした醪を発酵させる酛(もと・スターター)を立て、健常な酵母を育てながら醪中の糖分を喰いきらせる酒造りです。製成される日本酒度の平均は+14以上なので、数値だけで見ると相当甘くない酒を造っていることになります。

「五味」というものがあります。「甘・辛・苦・渋・酸」で構成される味わいのバランスで、よくペンタゴン(正五角形)の形で表されます。

綺麗なペンタゴンの形ほどバランスの取れた安心感のある味わいとなるのですが、日置桜のしぼりたて新酒は、この「甘」が極端に凹んでいるため、決してバランスの良い形とは言えません。つまり安心感を与える甘味以外が強調され、口に含むと苦くて渋い状態になっています。

そもそも、人の味覚は甘いものに寛大にできています。これは古代人類が自然界で食べ物を探していたとき、甘いものは安全だったからだと言われています。手っとりばやく食べられる木の実や果実がそれにあたります。

一方で酸っぱいものは「腐敗」、苦みや渋みは「毒」といったものを示し、これらが危険な要素として遺伝子の記憶に組み込まれたそうです。子どもが甘いものが好きな理由も、一種の防衛本能だと考えられます。

ところが人は年を重ねると味覚の嗜好が変わっていきます。渋いお茶を好んだり、酸っぱい梅干が好きになったり、苦味のあるビールを楽しんだり—と、生活の中に当たり前のように受け入れるようになってゆきます。今やこれらの味が、食文化を形成する大事な味のエッセンスであるのは言うまでもありません。

酒にも同じことが言えるのです。

なぜわざわざ飲みにくい新酒に仕上げるのか、それは食を活かす酒に仕上げたいとの思いがあるからです。酒だけで楽しみたいのであれば、甘味は重要なエッセンスとなりますが、余分な甘みがあると食欲のスイッチが入りません。

そこで麹や米に起因する以外の甘みは酵母に喰いきらせ、渋い酒を造っておいてじっくり熟成させることで重層的な旨みに変わるようにしているのです。これは甘柿で作った干し柿より、渋柿で作った干し柿の方が立体的なうまみを出すのと似ているように思います。

“いい酒”とは―伝えられてきたこと

まずお酒があるのではない。食の隣りで、食を支えるお酒を造ること。家業として、この仕事を継いで以来、このことを大切にしてまいりました。

第三代蔵主だった祖父・山根正徳は、軍隊で調理を担当するなど、食を大切にする人でした。

この祖父は、私が大学生の頃、亡くなりました。ある日、東京で学生をしていた私に、父・常愛(第四代蔵主)から祖父が余命幾ばくもないとの知らせが入りました。急遽東京から帰省し見舞いに行くと、私を見た祖父はこう言いました。

「食の邪魔をする酒だけは造ってくれるな」

既にまともな会話ができないほど衰弱したなかで、絞りだすように伝えられた言葉でした。実は祖父と私の関係は、必ずしも良好なものではありませんでした。しかし、それは大切な祖父の遺言です。忘れられない言葉として大事にしつつ、思いだしては悩む謎かけの言葉でした。

「うまい・まずいならいざ知らず、食の邪魔をする酒だなんて、どんな酒をいっているのか ―」

大学を卒業した私は、ある会社で見習いの職につきました。正月休みに帰省し、晩御飯を家族で囲んでいた時のことです。先代(父)が前年仕込んだ二つの酒をさしだしてきました。「お前も飲んでみろ」

一つは鑑評会出品用に仕込んだ吟醸酒、もう一つは純米酒でした。それぞれの酒の説明を受けながら盃に注がれたその酒たちは熟成しており、うっすらときれいな山吹色をしておりました。

まずは吟醸酒を。

確かに甘みを忍ばせバランスもよく、滑らかで喉越しもいいのですが盃が進みません。

次に純米酒を。

何か朴訥(ぼくとつ)とした感じで酸味と苦味が前面に出た野暮ったさはあるものの、飲みほしたときの余韻が心地よく、気がつけば盃が進んでいます。

「これは…?」と思い、お燗につけなおして味わうその酒はまた異なる表情を見せ、胃の中に優しく広がっていきます。そして一気に食欲が湧いてくる感覚を味わいました。

「なるほど、このことか、じいさん!」

長い謎かけが解けた嬉しさがこみ上げ、美味しさや飲みやすさだけでは語れない酒の持つ力、奥深さを知るきっかけとなる出来事でした。

「食を邪魔しない酒」—お酒だけですすんでしまうお酒でなく、食を活かす酒。それは日置桜を醸すうえで、まず大切にする酒の姿となりました。思えば父も、新聞や雑誌で気になる料理をみつけては、切りぬいて買い物にいくような食を大切にする人でした。食と酒がともにある場所には、幸いな空気もまた醸されます。

日置桜という日本酒も、世代交代していくなかで味わいは少しずつ変わってきました。しかしそれは時代に迎合してきたものではなく、今よりもっといい酒にするために、それぞれの代の者が少しずつ違うアプローチをしつづけた結果です。

味を守るという言葉は進化を放棄する逃げの言葉。絶えずワクワクドキドキするような酒をお届けしたい。我々もまだ出会ったことのない酒に出会うために。“いい酒”とは自明のものではないと思うからです。