世に媚びない酒とは…

人様からお金を頂くということに、昔からどうも苦手意識があるまま40も半ばになってしまいました。三十代の頃から私は料理教室を開いたり料理のレシピを作って、教室に参加してくださった方やレシピを依頼してくださった方から報酬を受け取ってきましたが、いつもこの値段を決めるという段階がどうにもモヤモヤして居心地が悪いのです。

そのモヤモヤがどこから生まれてくるのかを自分なりに分析してみると、自分の仕事の価値を自分で決めるということへの怖さに加え、どこか自信のなさもあったのかもしれず。できるなら、お客さまやクライアントさんが値段を決めてくれて、ただ自分は無心に作ることにだけに集中出来たらどんなに楽か、なんてずいぶん他人軸なことも常々思ってきました。

ただその考え方もいい加減変えなきゃいけないなと思う出来事があり、きょうはそんなことを書くことにします。

というのも鳥取に十数年ぶりに帰ってきてからというもの「ん?どうもこの土地の県民性なのかはわからないけれど。モノづくりの背景に思いをやるという姿勢が薄い方も結構多いのだなぁ」と感じる出来事がいくつか続いたからです。

たとえば、いま目の前にある1本の酒にしても、どれだけの人が関わり、どんな思いが連なってひとつのカタチをなしているかということ。

酒米農家さんが、日々雑草とりに追われ人にはコントロールできない自然の変化と呼応しながら世話をし続け。ときに収穫直前の台風に泣かされながらも毎年蔵にお米を納めてくださっていること。その米のポテンシャルをいかに活かせるかを考えて蔵元や蔵人が一丸となって、休むこともなく愛情を注ぎ酒を育てていること。そうやって出来た酒にまた一手間もふた手間もかけて出荷管理する人たちの存在。どの酒もひとつひとつが生きているということ。

そういうことがなかったことのようにして、本質までたどり着かずにただ安いから高いからだけでお酒が語られることの悔しさや悲しさ。

モノの値段も価値基準もひとそれぞれですし、衣食住を含めなににその人が価値を見いだすかもそれぞれ。我が家は洋服は比較的着たきりすずめでも、納得のいった食には変に出し惜しみしたくないというのが二人の暗黙のルールみたいになっていて、少々それが極端なためエンゲル係数もおかしなことになっていたりで。

何が正解かという話でもないのだし、ただ嘆いていても何も変わらないのだから、こちらからの伝える努力を地道に続けるほかないのだと思いつつも、ときどきどうにもやるせない気持ちになるときがあります。(身近な人にわかってもらうのが意外と一番難しいのは、何事も一緒かもしれません)

話しかわって。

昨年今年と鳥取にある当蔵の酒粕を販売してくださっているお店で、酒粕を使った料理教室をする機会をいただきました。どちらもふだん買い物をしてくださっているお客さまへの感謝祭的な要素の多い催しだったため、参加費は1.000円。実際のところ、講師をする私も会場を提供し準備を手伝ってくださっている企業さんも利益というものは基本的にありませんが、商品について少しでも知っていただき参加してくださったみなさんのふだんの食卓がにぎわったり、楽しい時間になればという思いでやっています。(もちろん私自身もその場を目一杯楽しみながら)

それでも後日、酒粕について勉強したいけど参加費が高くて参加できなかったという人がおられたという声を間接的に聞くことがありました。さきほど申し上げたように、何にいくらまでなら払えるかという価値基準は人それぞれで、その方はたぶん本当にそう感じられたのだと思うので、それ自体に良い悪いはありません。

ただ私個人のモノの考え方としては、なにかの知識や経験を得るときに、自分だけが得をする(安ければ安いほどいい)ということがどこか当たり前になってしまっている感覚や、その物事が実現するために影で動いている人達に対して想像力が及ばない状況があるとすれば、そこには少し怖さも感じます。

また今回の場合もっと深堀りすると、では無料でやったらその方は本当に参加されたか?といえば、それもどうなのだろう?とも思うのです。本当に意志のある方なら人に完璧にお膳立てしてもらわずとも自分で動きますから。なので、私はこれ以上の譲歩をするつもりはありません。

逆を言えば、本当にどうしても千円は捻出できなかったけれど、酒粕や日本酒に関してどうしても知りたいんだ!という熱意のある方が現実にいらしたのだとしたら、教室というカタチではなくてもきっと自然に出会えるようになっている、そうも感じています。

誰にとっても人生の残り時間には限りがあります。ただ受け身ではなく自分自身に新しい知識をつけたい、経験をさせたいという意欲のある方と私は向き合いながら一緒にひとつの場を作っていきたいし、仕事に限らず一方的に何かを求められたり、どっぷり寄りかかってこられるのはどうも苦手です。

そして少し大きな話をするなら、そういったいい意味で緊張感のある関係性を守り抜かないと回り回って、モノづくりが成り立ち継続していくための土台みたいなものを自ら壊してしまうことになるのでは?とも思っています。

先日とあるレストランに行き、その店のシェフの方が言われていた言葉に「本当はこんな料理が作りたいけど、鳥取の地元の人はなかなか新しい挑戦を好まないから」というものがありました。演劇が観る人がいて初めて成り立つように、料理も酒も食べ手や吞み手との対等でいて切磋琢磨できる人間関係があってこそ育っていくように思います。

買い物は投票だと思い、わずかではありますがこれから先も自分が残ってほしいと思える仕事に応援の思いもこめて、なるべく気持ちよくお金を払い循環させていきたい。そのこと自体がこの土地の生活や文化や意識の底上げにもなると信じているので。

そして、こうやって自分の気持ちを書きながら整理してみてわかったのは、どうも私自身がお金というものにもっていた恐れや不安感を乗り越えて、受け取ることに対しての壁も壊さないと次のステージにすすめない段階にきているということです。

正直、今回の教室の話を聞いたときは「いったいどこまで安ければ気が済むの?見えないところで人がそこに傾けているパワーや時間を何だと思ってるの?」という苛立ちとがっかり感もあったのですが、これも神様が誰かの言葉を使って私のなかにある「譲れないこと」を再認識させるために起こしてくださった出来事なのかもしれません。

自分の仕事の価値を自分で信じ高めていくこと。人さまの意見は意見として有り難く受けとめながらも、それに必要以上に振り回されて進むべき道を見失わないこと。

最近ようやく、社長のいう「世に媚びない酒」という言葉の持つ本当の意味がわかってきた気がしています。

                                                  (食と酒の実験室 山根明子)